Nのために - For Nowhere Man

このブログは、「Nのために」紡いでいくブログです

奪うだけ奪い 何ひとつ君に与えられない僕を誰よりも許せずにいるのは僕さ

中学生の時、国語の先生に褒められたこと。
それが、きっかけだった。

何かにつけ、作文や詩を書いて褒められた。
褒められたからなのか。
自分は、文章が書くことが好きなのだと思い始めた。

高校受験の時は、ろくに勉強せずに入りたくもない高校に行き。
ろくでもない生徒達に交じって、つまらない3年間を過ごした。

高校1年で大学受験を早々に諦めることとなり、高校時代もろくに勉強せず。文章を書く仕事に就きたいと親に話し、専門学校に進学した。

専門学校での授業はつまらず、仲間にも恵まれなかった。なによりがっかりしたのは、求人先が思っているような企業がなかったことだった。

雑誌の編集者になりたいのに、そんな求人はない。あるのは、印刷会社ばかりだった。学校の求人には目もくれず、ひたすら求人誌を見て、少しでも文章が書けるような会社を探して試験を受けた。

なにも知らない若造が、わかったような生意気に夢を語る。そんな若造に、経験豊かな採用担当者は何を感じただろうか。そんな夢のような仕事などない。そんなことをやんわりと教えてくれた気がする。

いくつかの会社の採用試験を受け、就職先は決まった。そこでの配属は、希望した部署ではなかったが、部下思いの課長。やさしい先輩達だった。それが、ある日、別の上司の下で仕事をすることとなる。

その上司は、冷徹。そんな言葉がぴったりの人だったと思う。なにかにつけ怒られた。そして、新入社員は、印刷物のミスが発生すると、いつも工場に行っての内職が待っていた。

その時代、こわいもの知らず。恐れるものなどなにもない。次の就職先も決めないまま、1年経たずに退職。


いったい、自分には何が出来るのか。自分は、何がしたいのか。そんなことを自問自答しながら求人誌を見たり、職安に通う日々。2週間もすると、だんだんと暇を持て余し。焦りを感じ始める。

ある日、頭の上で、インテリアが好きなんじゃないか。インテリアコーディネーターどうだ。そんな声が聞こえて、職安でインテリア関係の求人を探してみた。すると、2つの会社があった。

アパートからの通勤、仕事内容、待遇。それらを考えて、応募する会社を決めた。それが、今の会社である。


面接の日。駅からの道に迷って、きたない木造の建物で作業する人に場所を聞いた。すると、そこは面接をする会社の倉庫だったらしい。何人もの人が、梱包作業に追われていた。

面接が終わり、会社内を案内された時、自分が思っていたイメージとはまったく違うものが雑然と置かれているのに驚くばかり。やがて、「いつから来ることが出来ますか」と聞かれたので、「明日からお願いします」と答えたような気がする。

親は、再就職した会社を聞くと喜んでくれた。父親が、若い頃働いていた町と目と鼻の先だったのだ。何かしらの縁を感じながら働いた。

やがて。両親は、1年に1回、田舎から働いている会社に車で訪れ、いろんなものを買ってくれた。自分は、少しでも安く出来ないかと店長に相談して金額を決めて。なんか、ちょっとうれしかった。

そして、5年が過ぎた頃。アパートで同居していた弟が、実家のある田舎で就職して戻ることになった。その時、1人で生活する気にはなれず、会社を辞めて自分も実家へ戻る決心をした。

田舎の職安に通い、いくつもの面接を受けながら、「あなたの年齢では遅いよ」そんなことをさんざん言われ。けっきょく、行きたくもなかった会社の面接を受け、過大評価をされて採用されることになった。

その会社は、辞めた会社と同業。しかも、取引先であった。辞めた会社は、業界では名の知れた会社だったと初めて知った瞬間でもあった。

何ができるのか。こんなこと出来る?そう言われても、相手の望んでいることを満足に出来ない自分に対して、会社の人達は冷めた目で見るようになっていく。

そのうち、隣接県で長期の現場に行くことになり。そこで、仕事をするようになったわけだが、だんだん嫌気がさして。辞めることを決めるも、この現場が終わってから。そう決めていた。

すると、その現場で、辞めた会社の上司が仕事でやってきた。まさに、奇遇。そして、元同僚もやってきた。そこで、この現場が終わったら会社を辞めること。もし、なにか仕事があったら教えて欲しい。そんなことを話したりした。

現場が終わり、逃げるようにして会社を辞め。職安に通う日々が始まった。そこで、ある会社の面接を受けた。その直後、元同僚から連絡があった。「面接してくれることになったと」。

面接する日をどうしようか悩んでいると、父親が1日でも早い方がいいと言うので、早めにお願いすることにした。その日は、面接を受けた会社からの結果がわかる日だったのが運命のいたずらだったのだ思う。

田舎から上京し、1回辞めた会社の面接を受けると、「君だったら問題ない」「給料は辞めた時のままで」「所属はあそこで」と、すでに採用が決まっていた。逃げることは出来ない。

そんな状況の中、田舎で面接を受けた会社から連絡があった。「採用したい」という返答だった。この時は、迷いに迷った。「考えさせて欲しい」そうお願いすると、「待っている時間はないので、すぐに決めて欲しい。さもなければ採用しない」そんなことを言われたような気がする。

その時、こう思った。
田舎では、限られた回数しかコンサートに行くことが出来ない。
都会では、何度でも、好きなだけコンサートに行けるかも知れない。

当時、大好きだった浜田省吾
彼のコンサートに行くことを考えて、都会で働くこと。出戻りになることを決めた。
それが、現在も働いている会社である。

奪うだけ奪い 何ひとつ君に与えられない僕を
誰よりも許せずにいるのは僕さ
陽のあたる場所 / 浜田省吾

出戻りで働く会社では、元同僚と一緒に動くことになった。
元同僚は、行動力があるけれど頭は固い。
そんな人間だった。

一緒に得意先を訪問し、挨拶して。
営業は、元同僚。
実務は、自分が担当することになった。

あの時代。
イケイケの時代だった。

どんどん新しい仕事があったし、どんどん売れた。
とんとん拍子。
売上も、どんどん増えた。

毎日残業して、終わったら飲み屋でくだらないこと話してた時代。
帰宅する時も、毎日駅まで話しながら帰って。
まるで、学生の延長みたいだった。

学生の頃、仲間に恵まれなかった自分としては、ものすごく楽しかった。気の合う仲間たちがたくさんいた。弁当を一緒に買いに行ったり、ご飯を一緒に食べに行ったり。

でも。そんな時代は長くは続かなかった。
会社から、こういう話が合った。
「売上は君の名前で。元同僚は、新規営業してもらう」と。

新規営業。簡単なことではないが、元同僚には転職だった。いろんな会社に目をつけ、アポを取った。そして、取引が始まった会社がいくつもあった。それなのに、ある日、こんなことを言われたのだという。「君は、なぜ売上がゼロなんだ」。

当初の話とは、まったく違う。
思ってもいなかったことを言われ、同僚もとまどった。
そして、ストレスが溜まる日々がはじまった。

やがて、ちょっとしたことが問題とされ、部署の移動を言われた。
売上がないことを悩み、家では酒を飲みながら奥さんに話しをしていたのだろう。
何度も電話がかかってきた。

どうにも出来ない自分がいた。
ある日、早朝に社長から「ちょっといいか」と言われ、その同僚の話があった。付き合いが長いんだから、どうにかならないか。そんな話だったと思う。その場では「わかりました」と言ったものの、何も出来なかった。

何かにつけ話をしても、覇気がない。
同僚は、心の病に侵されていたのである。

何も出来ない。
救ってあげることができなかった。
やがて、同僚は、知らないうちに、ひっそりと会社を辞めていた。

自分は、その同僚から得意先を奪い、同僚になにもしてあげることができなかった。それは、後悔しても後悔しきれないことで、今でも、ずっと思っている。この気持ちを整理出来る時は、彼が元気に働いている姿を見た時なんだろうと思う。

その時に、「申し訳なかった」。そう一言お詫びを言うことが出来て、ようやく解放されるのだと思う。

あれから、どれくらいの年月が経っただろう。
元同僚は、介護の仕事をしているという噂を聞いた。
奥さんとは仲良くやっているだろうか。子供は、成人して結婚しただろうか。
それくらいの年月が過ぎた。

紆余曲折。
いろんなことがあった。

若くして部長が突然死。
その後釜に部長になったのは、時々話すことがある知っている人だった。
上長は、自分が会社を辞めた時に入社した知っている後輩になった。

そんな環境で仕事をしながら、数年。自分を理解してくれる人達がいて、自分がやっている仕事をわかってくれる人達がいる。これは、本当にありがたいことだった。

それが、2020年。新型コロナ感染症の影響で、仕事が激減。
迎えた2021年。大変な年になるだろうと思えた1月4日。

今年は、毎年恒例の社長の挨拶はなかった。
その替わりに、ブロッケンJr.からキツい言葉が待っていた。

2021年の方向性について書かれている文面を読んだ時、「これは」と思うようなことが書かれていたのである。
「もしかしたら」。そんな気持ちを持ちながら働いていたわけでが、昨日の朝、部長に「時間ある?」と呼ばれた。

仕事の話なら打ち合わせスペースで行うはずだが、「会議室に行こう」と。この時、すでにどんな話なのかは察しがついていた。だが、何を言われるかまでは想像できずにいた。

話しは、こうだ。
今の客先の資料を至急まとめて欲しい。
君の客先は、別の人間に引き継ぐ。
君は、これからめちゃくちゃ仕事が増える部署で仕事をしてもらう。
と。

その話を聞いて「良いも悪いもないですよ」「断る権利はない」そう答えた。
実際、今年の売上がどうなるのか。最終的にはわからないが、よくないだろうことは容易に想像できた。その中で、自分は何をしていくのか。来年以降も会社に居続けることが出来るのか。そんな気持ちも、少なからず持っていたのである。

定年までいられるのか。
定年過ぎて、嘱託として残ることが出来るのか。
そんな遠い未来のことも、ぼんやりと考えていた。

辞めるなら早い方がいい。
そう思うこともあったのだけれど、先延ばしに生きてきた。

そのタイミングで、この話である。
よくよく考えてみると、売上のノルマから解放される。
自分が思い描いていたような仕事でないにせよ、実務をこなしていく仕事。
そのボリューム、期限にはよるのだが、願ってもないことではないかと思えた。

もし、うまく この仕事をこなすことができたら。
ちょっとはいいことがあるのではないか。
そんな風に思えた。

そして。
これから先に訪れるであろう難問。
それも、やらずに済むわけだ。

この難問とは、仕事を依頼している人間が高齢となり、頼めなくなるのは時間の問題となっていること。
現在進行している企画がうまく進んでおらず、今後に不安があること。
などなど。

そして、なにより。
Nと関係がなくなること。

すべてを、すっきりとさせることが出来るのだ。
さらには、客先を引き継ぐことにより、会社を辞めるということも選択肢のひとつとなった。

転職するなら早い方がいいのではないか。
そう思っていた自分には好都合なのだ。
うまく転職できるかどうかは別として。

そう考えていると、妙に気分が明るくなった。
このコロナ禍、就職するなんて簡単ではないことはわかっている。

だけど、まったく就職先がないというわけではない。
自分の2021年の運勢は、いいはずなのだ。
そうポジティブに思える。

さっそく、昨夜、今朝。
知人にSMSを送ってみた。

何かおもしろそうな仕事先があったら教えて欲しい。
2021年は、大きく変わりそうだと。

とくに頼っているわけではない。
なにか情報があったらラッキー。
そんな気持ちで送ってみた。

もしも、おもしろそうな仕事先があったら、条件次第では話を聞いてみたい。
なかったとしても、別にダメージあるわけではないし。

それに、今まで さんざん迷惑かけてきた業者にも会ってお礼の一言でも言おう。
そんな気持ちでいる。

その時に、何かあればラッキーだし。
お世話になった業者とは、今後も付き合っていきたい。
そんなことも思っている。
さっそく、明日は外出して話をしようと思っている。

この先、どうなるかなんて誰にもわからない。
交通事故、コロナ。
そんなもので終わる可能性だってゼロではない。

どこまでも、自分を信じて、自分の人生を信じて生きていくしかないのだ。
当面の心配事といえば、田舎の母のこと。
元気がなくなっているという話も聞いた。

母が他界してしまったら。
同居している弟は、生活していくことが難しいだろう。
そんなことも考え始めている。

もしかして、田舎暮らしを始めるのか。
あの、大嫌いな雪が積もる田舎で。

ないようで、あるかも知れない。
絶対なんてない。

今まで通り、浮草のように、流されるまま、流れに乗って生きていくしかない。
それが、自分流。

このブログは、ものすごく意味のあるものになるのであはないか。
そうも思っている。

自分の気持ちの捌け口。
そして、コミュニケーションツールとして。
出来る限り綴っていこうと思う。

もし、更新がされなくなったら。
忙しくて書けないか、この世から消えているかも知れません。

追記
ちょっとネットサーフィンしていたら、こんな記事がありました。
www.sanyonews.jp

こんなことってあるんだなぁ。
わざわざ。ね。

この記事の最後の寺岡呼人コメントより

ノーマン・ビンセント・ピールの言葉を

現実がどんなものであっても、
それほど重要ではない。
もっと重要なのは、
その現実に対する私達の考え方だ。
なぜなら、その考え方がポジティブであれば
現実が変わるから。

やっぱりね。
自分がポジティブでいれば大丈夫。
ってことだよね。たぶん。